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奥アンツーカ創業者・奥庚子彦(かねひこ)の挑戦

1964年東京オリンピック物語

100メートル10秒を切る

1964年東京オリンピックを前に、国立競技場のアンツーカトラックは「ローマ超え」(1960年の五輪会場)を目指して一から作り直されました。情報の乏しい時代、奥アンツーカ創業者・奥庚子彦は相反する硬さと水はけの両立、そして「10秒の壁」に挑みました。

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目標はただ一つ、ローマを超える

東京オリンピックを前に、国立競技場のトラックは一から作り直されることになりました。

目標はただ一つ、ローマを超えること。1960年ローマ大会の男子100メートルで記録された10秒2は世界の注目を集め、ローマのトラックは高く評価されていました。陸連関係者は言いました。「ローマを超えるトラックを作ってくれ。できなければ外国製でいく」。東京オリンピックは、敗戦からの復活と国力を世界に示す舞台。新記録が出なければ日本の恥だ、という声さえありました。注目は、陸上の花形・男子100メートル。

情報なき時代の手探り

「ローマ大会の10秒2を超えろ」。それが奥に課された使命でした。

奥は、ローマ大会に出場した選手たちから徹底的に話を聞きました。「ローマのトラックはスパイクがかかる」。当時日本のアンツーカトラックはスパイクによって表面が崩れ、推進力が奪われていました。硬くすれば、スパイクのかかりがよくなり、タイムは出やすくなります。本来なら現地に実物を確認しに行きたいところですが、海外渡航が自由化される前で情報が乏しいこの時代、ローマのトラックの情報はほとんど手に入りませんでした。奥はローマを超える最高のアンツーカを作るため、新しいアンツーカの開発をスタートさせました。

硬さと水はけ、相反する難題

試行錯誤を繰り返し、硬いアンツーカを作れるようになったものの、もう一つ大きな問題がありました。硬くすればするほどアンツーカの粒子の隙間がなくなり、アンツーカ最大のメリットである水はけの良さが損なわれるのです。雨の多い日本において、水はけの良さは絶対条件でした。硬さと水はけは相反する要件であり、その両立はまさに難題でした。

1962年 国立競技場試験走路

1962年、国立競技場試験走路(手前の直線部分)新開発された「アンツーカ・ネオH」で臨む。

完璧解から最適解へ

奥は考え続けました。やがて、完全な水平にこだわらず、ルールが許すわずかな勾配をトラックに設けて雨水を横方向に流すという発想に至りました。(現在では当たり前に取られている方法)スパイクがよくかかり、雨が降れば水はたまらずに流れる。奥のアイデアと実験による検証で、硬さと水はけという相反する要件を両立させ、陸上トラック仕様アンツーカ「アンツーカ ネオH」を完成させました。完成した国立競技場のトラックは、ローマスタジアムのトラックを上回る評価を得ました。

1964年 国立競技場

1964年 第18回東京オリンピックを迎える国立競技場(アンツーカネオH)

キャッチコピーは「100メートル10秒を切る」

奥アンツーカはオリンピックで人類初の9秒台の目標を新聞広告で宣言しました。

新聞広告

以下広告文。

「東京オリンピックで、ついに陸上100mに9秒台の快記録実現か。いま、話題はその一点に集中してきた感があります。まず、出場選手が史上最強、加えて国立競技場のすばらしいアンツーカ・トラック。昨年完成以来、数々の競技会に新記録を生み続け、そのすぐれた性能を完全に実証しました。「世界一流のトラック」と国際陸連からも折り紙つき。運動場造成のパイオニア、奥アンツーカにして初めてなしえた快挙です。」

雨上がりの決勝、世界が見た日本のものづくり

オリンピックまで9か月というところで、奥庚子彦は脳梗塞に倒れました。命は取り留めたものの病状は重く、東京大会当日は病床から五輪を見守ることになりました。男子100m走前日、東京は激しい雨。関係者は誰もが顔を曇らせましたが、ただ一人、庚子彦だけは自らのトラックを信じていました。

1964年東京オリンピック開会式

1964年東京オリンピック開会式

奥庚子彦

「ああ、フィールドを選手たちが歩いていく…」テレビで開会式の選手入場行進を見ながら感激にひたる奥庚子彦=大阪・回生病院で

夜間のトラック整備作業

東京オリンピック期間中、夜間のトラック整備作業

夜間のトラック整備作業

東京オリンピック期間中、夜間のトラック整備作業

迎えた男子100メートル準決勝。ボブ・ヘイズが9秒9。追い風参考ながらも人類が初めて「10秒の壁」を突破した日となりました。そして決勝。ボブ・ヘイズは10秒0を記録し、ローマの10秒2を超え、オリンピック記録を更新しました。翌日の新聞には、元世界記録保持者ジェシー・オーエンスのコメントが掲載されました。

「昨夜のような雨の後で、コースがこんな状態に回復しうるとは思わなかった。どんな人がこれだけのコースを作ったのだろうか。ボブはその人に感謝すべきだ」

ジェシー・オーエンス(元世界記録保持者)

「史上最高のトラック」

デヴィッド・バーリーエクセター侯爵(国際陸連会長・英国)

東京オリンピック1964ではトラック競技で36のオリンピック新記録が生まれ、奥が作ったトラックの性能が証明されました。

受け継がれる情熱

五輪後も闘病を続けていた奥庚子彦は、一度も自宅へ戻ることなく、68年の生涯を閉じています。日本が敗戦からの復興を世界に示した1964年、その舞台裏にあった多くのドラマの一つに、「ローマを超える」という奥庚子彦の信念の物語がありました。庚子彦が掲げた約束は、東京オリンピックで確かに果たされました。

奥アンツーカは、庚子彦のものづくりへの情熱を受け継いでいきます。東京五輪の後、次世代トラックとして海外で頭角を現してきたウレタン樹脂を用いたトラック舗装材の初国産化に成功しました(1970年)。このウレタン舗装材(現在の「トップエースCL」)は研究と改善が繰り返し行なわれ、2007年の世界陸上大阪大会にも採用されています。さらにそれから20年を経た現在もなお、奥アンツーカはより良い舗装材への挑戦を続けています。

長居陸上競技場

長居陸上競技場が、「溝切り切削オーバーレイ工法」と呼ばれるトップエースCLの新工法で完成。JAAF1種公認およびIAAF(現WA)「クラス1」認証検査をクリアし、2007年世界陸上選手権大会に臨む。

世界陸上2007大阪 閉会式

「世界陸上2007大阪」閉会式。熱く燃えた9日間。真夏の異常な高温・多湿の中で、今世紀世界最高記録21、大会新記録2、アジア新記録2、参加選手の国内最高記録59、個人最高記録263が生まれ、「高速トラック」の真価を発揮。

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ありがとうございました

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